なくてはならないもの

時間がもっと欲しい。それほど自分の時間が足りないわけでもないはずなのだが、最近本当に毎日がアッという間に過ぎていってしまう。

「今日の予定」を思い通り済ませることもあれば、何もできないまま眠りについてしまうこともある。予想外のアクシデントがあったり、つきあいがあったり、気分転換が必要だったり。だから、やろうと思ったことが少しずつ先送りになっていく。これは致命傷である。今日できなかった分を、果たして明日できるだろうか?甚だ疑問なので、「今日できることは明日にまわすな」の精神で、時間を無駄にしないようにとあくせくしている。

よく人から「いつも何か持ってるよね」なんて言われる。確かにそうだ。どこで不意に時間ができるかわからないので、たいてい何らかの本を持ち歩いている。それでも部屋の中には、読破されないままの本が沢山積まれていて、本を読まない人からすれば「なんと無駄なことを」ということになるが、私にとって、何もしないでテレビを眺めることの方が無駄。どちらが正しいということでなく、価値観の違いなのだ。
しかし、本代の負担と本を探すのに費やす時間については、極力減らしたいものだ。

気がつけば1時間以上経過していた、なんてことは少なくない。自宅で本のありかを検索して、効率よく入手する方法はないのだろうか。
いつどこで撮りたいものに出会うかわからないので、行く先々カメラを持ち歩いている。そういえば先日陶芸まつり(福井・宮崎村)の会場で私らしき人物を見かけたという人がいて、カメラを持っていないか確かめたそうだ(笑)。この春IXYを買って、さらにシャッターチャンスが増えたのだが、こいつがなかなかカワイイ奴で、とても愛着がある。デザインが気に入ってカメラを買ったのは初めてだが、この「IXY欲しい病」が私の周囲で伝染しはじめているようだ。何だか知らないが、私の撮った写真やIXYを見て、次に会ったら「カメラ買ったよ、ほら!」などとバッグの中からIXYが出てきたり、「写真やりたくなってきた」なんて具合だ。

なぜ写真を撮るのかといえば、私の懐古的趣味と自己主張の現れだろうと思う。
写真が残っているおかげで、忘れない人の顔や場所や事柄がたくさんあるのだ。
「この光景に、もう出逢うことはないかも知れない」そう思って、いつもシャッターを切っている

新しい知識を取り込むためには蓄積したものを外へ出すべきである、という話を聞いた。面白い発想だと思った。ただ外へ追い出すのではなく、人に提供するという意味だそうだが、正確に記憶して伝えるには自分がきちんと理解し説明する力を持っていないと難しい。そう考えると大変重みのある話なのである。

1カ月の間にどれだけの本を抱え込んでいるのかわからないが、辞書代わりとして時々開く参考文献や、一気に読んでしまう本など様々。月刊雑誌も貴重な情報源として、時にはさかのぼって調べることもあるので1〜2年は手元に置き、手狭になってくると処分するようにしている。たいていは「置いといて良かった」という結果をみるからだ。
幾つもの事柄を同時進行させるせいか器に注がれた水はどんどん溢れ出ていってしまう。このままではいけないと思い立って、ある方法に徹することにした。メモである。本を読むときは必ずペンと手帳を傍らに置いて、覚えておきたいことは書き込む。仕事に関わることなど特に残しておきたい事柄は、大学ノートに書いておく。この1年間、自分の記憶がいかに曖昧で頼りないものかを思い知らされた。

メモのおかげで忘れてしまっていても思い出すことができたノウハウは、どれほどあっただろう。その場では覚えたつもりでいても、反復効果がないと、ものの見事に喪失してしまうものらしいことを知った。一時期自分が健忘症もしくはアルツハイマーにかかっているのではないかと疑ったほどだ。
読書の結果を最大限に生かすためにはじめたメモは、少しずつ功を奏しはじめている。せっかくメモをしても見なければ意味がないが、メモが日課になってくるとそういうこともなくなる。
さて、明日はどの本をメモしようかな・・・・。

1997.05.02

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